梢は念のため非通知で名刺の電話番号にかけてみた。これでつながらなかったら詐欺だったで終わればいいと言いきかせていた梢は、電話の呼び出し音が聞こえたのでひとまず安心した。
「はい、◯◯プロモーションです」
落ちついた年配の女性が電話に出た。
「もしもし、去年の夏に街でこちらの名刺をいただいたんですが、吉田さんはいらっしゃいますか? 直接お話を聞くことはできますでしょうか?」
「少々お待ちください」
緊張で渇いた喉を潤すため、梢は氷を入れたグラスに冷蔵庫にあったジャスミンティーを注ぎ、一氣に飲みほした。グラスのなかの氷がカラリと音をたてて動いた。
「お電話かわりました、吉田です」
その声の主は紛れもなくあのときのスカウトマンのものだった。
「去年、街で名刺をいただいた者ですが、直接お話をお聞きしたいのですが」
「えーと場所は渋谷だったっけ? 来週の土曜か日曜の十四時くらいに事務所に来られますか?」
帳尻を合わせるような業界人特有の軽いトークの吉田。
たぶん、今までスカウトしたのは私だけではないだろうし、私の顔を覚えてなくても仕方がない。
「はい、日曜日の十四時で大丈夫です。吉川と申します」
「当日場所がわからなくなったら、道案内するから電話してね」
忙しいのか、必要なことだけを伝えるとすぐに吉田は電話を切った。
日曜日。五月の爽やかな風が首筋をなでるのを感じながら、梢は南青山から十分くらい歩いた。アスファルトに囲まれた都会のどこからか、救急車の音が聞こえる。
なにかあったのかしら。
梢は緊張から逃げたくなり、どうでもいいことばかり考えて氣をそらそうとした。
名刺の住所を頼りにオフィスビルを見つけ、そのビルの入口で◯◯プロモーションという事務所が入っていることを確認した梢は、エレベーターで十階に上がった。
そこはフロア全体が事務所になっているらしく、入口のドアは開けっぱなしで、たくさんのモデルのポスターが貼られていた。
自分がスカウトされたのって去年の七月で、演技レッスンの帰りだったっけ。
ドアが開いている。やだなぁ。
梢にとって声を張りあげて初対面の人のなかに入っていくよりも、閉められたドアをノックするほうが入りやすかった。
「あのー、すみません。お電話しました吉川です」
「おはようございます。こちらにどうぞ」
あいさつは、この業界特有の昼でも夜でもおはようございますだった。
無難にファーストコンタクトを終えた梢は社長室に通された。
三人がけのソファに座り待っていると、吉田とは違う男性が現れた。
「その件は、明日ゴルフのときでいいよ。はーい」
その男性は電話を切ると、梢をじっと見た。
「こんにちは」
「こんにちは。本日はよろしくお願いします」
「いいよいいよ、もっと氣軽な感じで。はい、これ名刺ね」
「ありがとうございます」
渡された名刺には代表取締役と書かれている。社長だった。
「渋谷でスカウトされたんだって?」
「はい」
「いつ?」
「去年の夏ごろです」
「怖くなかったの?」
梢をからかっているのか、ニヤッと笑いながらその社長は言った。
「あー、はい怖かったです」
機械的にほほ笑む梢。
「見かけはあんなんだけど、うちの事務所は全然怪しくないから大丈夫だよ」
笑いながら値ぶみする社長の相手を射抜くような鋭い眼光に不思議といやらしさは感じなかった。
「はい」
「今何歳? モデルに興味はある?」
「二十三です。興味はあります」
とっさにうそをつく梢。
身長が百六十五センチでモデルとしてはそんなに背が高いほうではないが、ビジュアル的には非の打ちどころのない梢をモデルとして売りだしたい、ゆくゆくはファッションモデルとして海外でも通用するモデルに育てたいと社長は話した。
梢は出された熱い緑茶の真ん中に立っている茶柱をじっと見つめながら、自分の未来をあれこれ想像した。
やっぱり女優志望だし、ただきれいに笑っているだけのモデルの仕事は嫌……話を聞いてみたけれど女優ほど魅力的じゃない。
「考える時間がほしいので、またお電話します。今日は、貴重なお時間をいただきありがとうございました」
すでに自分の心は決まっていたが、梢は丁寧にあいさつするとそのビルを出た。
やっぱり、モデルは氣分がのらない。
梢は家に帰ると浅はかな自分を反省した。氣分がのらないということはそっちの道ではないということだ。
女優を譲れないプライドはどこからくるの?
なにかをつかめそうでつかめない梢はもがいていた。
氣持ちを切りかえたくて、ピリリとしたしょうが焼きが食べたくなりスーパーへ買いだしに行った。
梢は野菜コーナーでしょうが焼きにそえるキャベツを手にとった。そのキャベツは緑の葉がみずみずしくどこをとっても新鮮そのものだった。
ふと目線を手前に落とすと、鮮度が落ちた元氣がないキャベツと目があった氣がした。そのキャベツは外側の緑だった葉が、薄茶色に変色していた。なんだか今の自分に似ていると梢は哀れな氣持ちになり、きっと買ってくれる人がいなくて手前によせられたんだろうと、葉が薄茶色に変色したほうのキャベツを自分のカゴにそっと入れた。
しょうが焼きは簡単だ。
梢は冷蔵庫にあった豚肉とキャベツをまな板の上に出した。
「ごめんね」
自分の氣持ちを大切に扱えなかった小さなインナーチャイルドへの謝罪だった。
梢は自分の本心を裏切った氣がした。
買ってきた長ネギや人参、じゃがいもやミネラルウォーターを梢はそれぞれの場所にしまった。そして、キャベツを千切りしていると寂しさと今までのことを浄化するみたいに涙が出そうになる。鼻の奥がツンとしてきた。
もうすぐ何かが終わる氣配を感じた梢は、今自分に必要でないものは手放さなければならなかった。
しょうが焼きをひとくち食べると梢の目から最初の涙がこぼれ落ち、あとはもうとめどがなかった。口の中にしょっぱい涙が流れこんでも、梢は氣にせず食べ続けた。涙がすべてを洗い流してくれているようだった。
母親に「眠いんだねー」とあやされながらもギャアギャア泣く赤ん坊の涙のように、きっと大人にも必要な生理現象なんだろう。
「自分を深く知る」ことをさまざまな角度から探求し、自分を癒やしていく過程で、生きづらさの原因がHSPという特性であることにたどりつきました。
このブログはHSPという特性に向き合いながら、結婚と天職を手に入れるまでの心の深海潜水夫記録です。
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カテゴリーは、
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大人になってHSPを知り、ふに落ちた過去の思いを忘れずに書きとめておきたいと思い始めました。小説も書いています。
現在、工場で働くHSPアラフォーです。
あくまで、個人的考察です。