早朝。梢はおそるおそる外を見たが報道陣らはいなかった。
風がなく、夏はとっくに終わっているのに出しっぱなしの軒下の風鈴がリンとなったのを最後に、静けさが居座った。
朝食の支度にとりかかる梢。宮城県産の『ひとめぼれ』は、内田の地元のお米らしく、『初星』と『コシヒカリ』の交配により誕生したらしく、ツヤとしっかりとした食感がありおいしかった。おいしいお米は、炊いているときの湯気の匂いから違った。炊飯器のふたをあけてのぞきこむと梢の顔が湯気で包まれた。梢はしゃもじでご飯をかき混ぜながら子どものころを思いだしていた。
温かいご飯が身にしみる。炊きたてのご飯に卵をかけしょう油をたらして食べる卵かけご飯。アツアツのご飯の湯気の匂いと卵としょう油のハーモニーがこんなにおいしかったのか。
朝食をすませると、社長と昨日の話の続きをするため梢は事務所に電話をかけた。
「おはようございます、吉川です。今日の夜お会いしたいんですが……」
「おはよう。じゃあ、二十一時に事務所で話そう」
「ありがとうございます」
七時を過ぎるといきなりピンポーンと、チャイムが鳴った。
梢は電話を切り、カーテンの隙間からそっと外を見た。いつの間にか玄関や近所まで、カメラやマイクを持った報道陣らがいっぱいになっていて、梢が出てくるのを待ちかまえていた。
何度もチャイムを鳴らされるので電話のコンセントを抜いた。
部屋には内田と耀がいた。
「今日の夜二十一時に、社長と会うことになったよ」
「わかった」
今日が土曜日で助かった。耀は幼稚園が休みだし、内田も今日明日と家から出ないですむ。
「耀、今日のお昼は何がいい?」
「ハンバーグが食べたい」
「ハンバーグくらいなら僕でも作れるよ。そうだ、梢は夕方までゆっくり寝たら? 夕飯になったら起こすからさ」
「ありがとう、助かる」
外の報道陣の量に氣が氣ではなかった梢は、内田の言葉に甘えて夕方まで寝ることにした。
梢が目を覚ますと、すでに部屋は薄暗かった。電気をつけると軒下に虫が集まっていた。鎌倉という自然に囲まれているせいなのか、あまり都内では見たことのない光景だった。
梢は窓の外をのぞきこんだ。報道陣らの姿は見えなかったが、隠れて取材の機会を待ちかまえていることはわかっていた。
内田が作ってくれた夕飯を食べてシャワーを浴び、薄く化粧した。
そしてタクシー会社に電話した。
「こちら◯◯タクシーです」
「すみません。すぐに配車をお願いしたいのですが……」
「かしこまりました。住所とお名前をお願いします」
「はい鎌倉市ーーーーです。吉田です」
「承りました。五分ほどでタクシーが参りますのでお待ちください」
「あの、それでお願いなんですけど…………」
「はい?」
「運転手さんに私が乗ったらすぐに車を出していただけるようにお伝えいただけませんか?」
「と言いますと?」
「えぇと、その。実は家の前に不審な人がいて怖くて……できる限り早く家を離れたいんです」
「承知しました。それでは運転手のほうに伝えておきます」
梢は電話を切るとサングラスと帽子を目部下までかぶり、身支度を整えた。
窓の外で車が止まる音がした。
「内田さん。私が出たらすぐに鍵をかけてね」
「わかったよ。いってらっしゃい」
「……いってきます」
梢は玄関を出ると、家の前に停まっているタクシーに飛びのった。
「お待たせしました」
「吉田です。とりあえずすぐに出してください」
「はい」
タクシーの運転手はアクセルを踏み、すぐさま内田の家をあとにした。後部座席から後ろを振り返るとカメラを持った男が追いかけてきたのが見えた。
事務所へ到着すると社長が出てきた。
クマがすごい。きっと一睡もしていないに違いない。
今日は電気がついていて、スタッフもちらほら見えた。
「おはようございます」
「おはよう。昨日はよく眠れたか?」
「はい。それでいろいろ考えたんです。私、やっぱり女優を続けていきたいです」
梢の目は静かな光を帯びていた。
最初は人に認めてもらうために、女優としていい作品を作ることだけに集中しようと思っていたけど、途中からお芝居が好きだから、自分がやりたいから女優としていい作品を作りたい。誰かに認められたい私はもういない。これからはありとあらゆるものを自分の血肉とした大先輩と同じような、すべてと一線を画す女優になりたい。
「そうか。女優を続けていくとなるとこれから大変だぞ。わかっているとは思うが、批判や嫌がらせに耐えられるか?」
社長は梢の殺人未遂を大きく取りあげた週刊誌を机の上に置いた。
「はい、承知しています」
「母親役がきてもできるか?」
「はい、やります。やらせてください」
「世間の風向きはきついぞ。大丈夫か?」
社長は声を重くして梢に念をおした。
「私は女優でいたいんです。現場にいたいんです。内田さんとも話して芝居が好きなら腹をくくれと言われました。もう誰かに認められる女優はやめたんです。私は女優です。私が女優として活躍できるなら批判されてもいいんです」
「そうか。そうと決まれば早いほうがいい。誰か進行役に入れて、一週間後に記者会見しよう。記者会見の日程は明日の朝、いっせいにマスコミへ送るから。そうすれば自宅のマスコミも落ちつくだろう」
「はい。よろしくお願いします。結婚前提におつきあいしている人がいることも、その場の流れで言ってもいいですか?」
「おまえに任せるよ」
「ありがとうございます、よろしくお願いします」
梢は、内田との結婚はタイミングを見計らって報告することにした。
たくさん嫌がらせもあるだろう。どこでどんな生き方をしても、多かれ少なかれ必ず批判する人は出てくる。でも、私の居場所、そして輝く場所は芸能界で、女優であるということがはっきりとわかった瞬間だった。
「自分を深く知る」ことをさまざまな角度から探求し、自分を癒やしていく過程で、生きづらさの原因がHSPという特性であることにたどりつきました。
このブログはHSPという特性に向き合いながら、結婚と天職を手に入れるまでの心の深海潜水夫記録です。
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大人になってHSPを知り、ふに落ちた過去の思いを忘れずに書きとめておきたいと思い始めました。小説も書いています。
現在、工場で働くHSPアラフォーです。
あくまで、個人的考察です。