次の瞬間、包丁が母の服を通過し肌に刺さり骨を削る手応えが梢の腕に伝わった。梢は鮮血が吹き出し、倒れこむ母の苦しむ顔をボーッと見ていた。無表情だった。
体から抜いた包丁にはむせるような血の臭いが付着し、梢は思わず口もとをふさいだ。
梢は取り乱してはいなかった。まるで、映画で人殺しのワンシーンを演じているかのようで、何もかもがどうでもよくなってしまった。
「今、母を殺してしまいました。すぐ来てください」
梢は救急車を呼んだ。
梢は事情を聞かれる前に病院ではなく、すぐ東京に戻った。
自首するのは、事務所に連絡してからにしよう。世間に流れる前に事務所に言っておかないと。
「私ごとで迷惑をかけることになると思います。すみません。これから警察へ行きます」
梢は社長に深々と頭をさげた。
「わかった。それ以上言わなくていい」
社長は動揺を隠さなかった。
「マスコミの対応はこっちでやるから、何があってもうちと吉川の関係は変わらないからな。氣を落とさず頑張れよ。待っているからな」
「はい、ありがとうございます」
顔面蒼白の梢は、静かに社長の言葉を聞いていた。仕事がすべてキャンセルになるため、多額の違約金がかかり事務所に多大な迷惑をかけてしまうことがわかっていた梢は、焦りから混乱する頭を落ち着けようと何度も深呼吸を繰り返した。
事務所の仮眠室を借りて、横になった。
そして、目を覚ます。知らず知らずのうちに寝てしまっていた梢が時計を見ると六時間も経っていた。
急いで事務所を出ようとしたとき、梢とすれ違いに事務所の大先輩が入ってきた。CHANELのイヤリングが華やかさを醸し出している。
「おはようございます」
目が合った梢はあいさつをした。
「おはよう。ねぇ、あなた何をしたの? びっくりしたわよ」
大先輩の女優は、かばんから取り出した新聞を梢に見せた。
新聞には『吉川梢母殺害、銀座ホステスの過去』と大きく書かれていた。
「……すみません」
「あなた、これから大変ね。でも、全部芝居の糧にすればいいのよ。いろんなことを経験して、すべてを味わえばもっといい女優になれるわよ」
「はい」
「この業界は変わった人が多いから、あなたを求めてくる人たちもまた出てくるからさー」
「……」
「あなたは独特だからね」
「………………」
「あなたには、女優としてもっと大きくなってもらいたいのよ。他の女優とは違ういいものをもっているからね。悔しいけどさ」
頭のなかはボーッとしていて、大先輩の言葉が右から左に抜けていくだけだった。
大先輩の女優の個展はいつも満員だった。
梢がちらりと聞いた話では、大先輩は若いころに大失恋して自殺未遂をしたらしく、スキャンダルにこと欠かなかったみたいだが、そうした過去をみじんも感じさせないくらい芯が通っていて存在感がある女優だった。かっこよくいたい自意識と他者視線を意識する葛藤をこえて、自分を本氣でさらして結果を受けとめてきた人でなければ大先輩のような美しさは体現できない。
この大先輩に比べ、自分はまだひよっこであることを梢は十分承知していた。なぜなら、梢はりんとした美しい人が好きで自分も美しくありたいと思っていたからだ。
その日、梢は警察署に自首した。
外は熱気を残したまま、いつのまにか薄暗くなっていた。しかし、取り調べ室の空間は窓がなく無機質で、皮肉にも梢が受けた事務所のオーディションのときの台本に書かれていた光景と同じだった。
新聞やテレビは、どこも梢の逮捕をひっきりなしに報じ、優弦や内田、風間社長、銀座のお店の人たちや新聞配達所の人たち、兄やいっしょに優秀作品賞をもらった共演者たちもすぐに知ることとなった。
取り調べが終わり、検察に送られ拘留期間に入った梢はようやく内田と面会が許された。
内田は「梢に対する氣持ちは変わらないし、出所するまで待ちたい」と真剣な声で言った。いっしょに来ていた息子の耀もうなずいた。
そして、梢は留守電が入っていたことを聞いた。
内田は「大丈夫か? 僕は梢を信じてるよ。梢は女優になるために生まれてきたんだから。服役して出てくるまで待ってるよ」という優弦からのメッセージを読みあげた。
梢は黙ったまま膝の上を見つめるしかなかった。
兄やいっしょに働いていた銀座のお店の支配人、以前映画で共演したかたやスタッフたちからも心配しているという電話やメールが梢に届いていることも聞かされた。兄のメッセージから母は一命を取りとめたことはわかったが、梢がやってしまったことには変わりなかった。
梢は自宅のことは事務所と内田に、母や実家のことは兄に任せることにした。
サタンリターンが遅れて来たのか、本当の意味で自立した大人になれるのか、梢は見えない何かに試されているような氣がした。
本当の自立ってなんだろう?
内田との面会が終わったあと、梢は無機質な部屋でひとり考えた。
母の呪縛から逃れようとしても逃れられないいっときの自分の感情に翻弄されて、とっさに殺してしまった。私は母が嫌いだった反面、どこかで母に認めてもらいたい、それ以上に認めてもらえるようなことをして母や地元の人間たちを見下したかった。自分が玉座に座り高いところから見下してやりたかった。今は私の言動のなかにはすべて母の存在があったことが理解できた。そんなことで自分の人生を台なしにしてしまっていいのだろうか? いいはずがない。感情の虜になり、そのたびに一喜一憂して自分のエネルギーを消耗させるのはもう嫌だ。すべてを受け入れて、自分のために幸せになりたい…………。
公判の日、初犯であることや介護の疲れなどが加味され、執行猶予つきの有罪判決が言いわたされた。
「自分を深く知る」ことをさまざまな角度から探求し、自分を癒やしていく過程で、生きづらさの原因がHSPという特性であることにたどりつきました。
このブログはHSPという特性に向き合いながら、結婚と天職を手に入れるまでの心の深海潜水夫記録です。
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大人になってHSPを知り、ふに落ちた過去の思いを忘れずに書きとめておきたいと思い始めました。小説も書いています。
現在、工場で働くHSPアラフォーです。
あくまで、個人的考察です。