それからしばらく快進撃が続いた梢に、一本の電話がかかってきた。談笑を切りあげスタッフのひとりが電話に出る。
映画のオファー。それも主演だった。
自らの生い立ちにコンプレックスがあり、共感能力が優れ、悩みを抱えた患者の氣持ちが自分のことのように理解できヒーラーのように患者の心まで癒やせる優秀な女医の役だった。
主に病院の中でのシーンが多く、梢は台本を読みながら自分のための役だと高なる胸の鼓動を感じた。
クランクインは十二月下旬。映画の撮影で新年を迎えることになるらしい。
女優として遅咲きだし、もう寄り道はしたくない。人生、巻き返しを図るためにもこの勢いに振り落とされちゃいけない。
夢をかなえるために仕事に専念すると決意した。
「吉川、どうする?」
電話を受け取ったマネージャーは、オファーを受けることを確信しながらもいちおう梢に聞いた。
「ぜひ、やりたいです」
「そうだよな、おまえにぴったりの役だと思うよ」
「はい。私もそう感じました」
「このまま波にのって、スターダムに登りつめたいなぁ」
「そうですね」
梢は笑った。自分より周りの人間のほうが有頂天になっていたからだ。
スケジュールを確認するため、梢は手元のスマホを開くと希子からラインが届いていた。「息子が無事に生まれました。名前は耀(よう)です」と写真が添付されていた。
今月上旬に生まれたらしく、希子に抱かれた赤ん坊は目元が希子にそっくりでとても愛らしかった。
梢は「出産おめでとう。時間の余裕ができたら、またいっしょにご飯に行こうね」と返した。
二十五歳 三月
梢は新年を映画のセットの中で迎えた。撮影は天候も関係し少しだけ遅れたが、けがや事故もなく無事に終わり三月三十日でクランクアップした。
お疲れさまの花束をもらった瞬間、梢は大声で泣いてしまった。学ぶことも多く、ベテランの共演者の方に助けてもらいながらの和氣あいあいとした現場を離れるのは寂しかったのだ。梢は、この映画の共演者や大勢のスタッフたちと、ひとつのことを成し遂げるために出会うべくして出会い、別れるべくして別れた、魂の絆みたいなものを感じずにはいられなかった。そのくらい不思議な人間関係で、懐かしくほっこり胸のあたりが温かくなるような、梢にとってスタッフも含めすべてが居心地のよい仲間たちだった。
ここまで嫌なことが何ひとつない現場は珍しかった。
それぞれの個性がそれぞれの役割を果たし、相乗作用で全体が完璧な形にまとまり自分と周りのすべてが幸せで癒やされながら、ひとつの目的に向かうような感覚だった。
小学校や中学校の卒業式も、そして高校を中退したときも梢は寂しくなかった。頼まれたらサイン帳にメッセージを書くことはあったが、梢は必要ないので持っていなかったし、学校を辞めるときも書いてもらうようにお願いすることはいっさいしなかった。昔の梢は自分の存在を消したかった。
撮影は終わってしまった。しかし、梢はピリオドを迎えた季節を振りむかないで、前だけを見て進めと言われているような氣がした。
雨が降っていたが、梢は久しぶりに休暇をもらい氣分転換に故郷を訪ねてみることにした。目的は、小学生のころ通学路にあった映画のポスターが貼られている小さな本屋に行くことだった。梢はその小さな本屋に、自分の映画のポスターが貼られているかどうかを確かめたかったのだ。
田舎なので、平日の昼間はあまり人が歩いていない。傘でちょうど顔が隠れるのも、梢にとって好都合だった。
小さな本屋の入口まで来ると、窓に自分が主演した映画のポスターが貼られているのが見えた。
梢はポスターの正面に立った。
現場のいろいろな思い出が鮮明によみがえり、しばらく動けずじっとポスターを見つめた。
泣きそうになった梢は、いっそうこのまま雨にぬれてすっきりしたい衝動にかられ、さしている傘をかくれみのにして泣いた。
二十五歳 五月
二十九日に映画公開初日と舞台あいさつを無事に終え、来年発表の日本アカデミー賞のノミネートに間に合うと梢はホッとした。日本アカデミー賞は過去一年間に公開され、選考基準を満たした作品が対象となり、翌年三月に授賞式がある。梢の作品も選考対象に入っていた。
映画公開初日が過ぎ少し髪を切りたくなった梢はいきつけの美容院に行った。
待ち時間に雑誌を見ていると、公開中の梢の主演映画の特集がさまざまな雑誌で取り上げられていた。
世間の評判は上々だった。
二十六歳 三月
映画が公開されてから一年があっという間にすぎていった。
梢には草木が春の日差しを喜んでいるように見えた。去年より花粉の症状はひどくはないが、梢は念のため薬を飲んだ。
今日は日本アカデミー賞授賞式のため、梢は会場に向かっていた。
初めて足を踏みいれる空間には、華やかなきらめきと背筋をすっと正したくなる重厚感があった。
そして、ついにそのときがやってきた。
「発表します。第四十四回優秀主演女優賞は吉川梢さんです」
エメラルドのロングドレスに身を包んだ梢は、たくさんの拍手喝采を浴びながら舞台にあがった。夢見た美しい景色を目の前にした梢は胸が熱くなった。
胸元には、誕生日に風間社長からもらった真珠のネックレスがスポットライトの光を受けて輝いていた。カメラのフラッシュが華やかな空間すらも白くしてしまう。
今日の梢は誰もが息をのむほど美しかった。
優秀作品賞をいただいた梢は、監督や共演者たちと抱きあい喜んだ。
次の日。「映画、観たよ。優秀主演女優賞、優秀作品賞おめでとう。こっちは子どもが生まれました」と、優弦からラインが届いていた。
久しぶりのやりとりのなかで、優弦はバンドでメジャーになることを諦めて徳島に帰っていたことを明かした。
同級生と結婚した優弦に息子が生まれていた。梢は優弦が自分に息子が生まれて音楽の道に進みたいと言ったら、絶対に応援すると言っていたことを思い出した。
希子からも「映画観たよ、すごいじゃん。優秀主演女優賞おめでとう。私は離婚したよ。近いうちにご飯でも食べにいきたいね。伊勢原で会いたいなぁ。ではでは」と、ラインが届いていた。
梢は驚いた。希子から出産の報告を受けたのが、ついこの間のように感じたからだ。
優弦と希子との友情は恋より長く、グッドタイミングで梢を癒やしてくれる存在だった。
女優としての風格が出てきた梢は、自分を苛めた嫌いな地元のやつらに悔しさを晴らせられたと自分のなかで自信を取り戻していった。それが自己満足だとしても、ひとつの成功体験を手に入れたと確信していた。
思えばここまで来るのにオーディションを受けレッスンに通い、少しずつドラマや映画の仕事をこなしてきた。ようやく優秀主演女優賞というひとつの着地点にたどりついた梢は、レッスンに通う日々を入れると七年半近く女優という人生に費やしてきた。
もちろん下積みのほうが長く、学んだいろんな表現方法や、さまざまな出会いと別れが梢の芸の肥やしとなってきた。
私という人間は、つくづくお芝居の世界が好きなんだなぁ。
梢ははっきりと確信した。
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「自分を深く知る」ことをさまざまな角度から探求し、自分を癒やしていく過程で、生きづらさの原因がHSPという特性であることにたどりつきました。
このブログはHSPという特性に向き合いながら、結婚と天職を手に入れるまでの心の深海潜水夫記録です。
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大人になってHSPを知り、ふに落ちた過去の思いを忘れずに書きとめておきたいと思い始めました。小説も書いています。
現在、工場で働くHSPアラフォーです。
あくまで、個人的考察です。