何が本当の自分で、何が好きで何が嫌なのか。ずっと違和感を感じていた。
そこには疑問や葛藤があったが希望もあった。
人の感情が入ってきて自分の軸が揺れる。軸が揺らぐと、私の口は本音とは違う言葉をしゃべり、あの人に合わせこの人に合わせ、自分に矛先が向かないように氣を使う。人の感情が入ってくるのを許してしまうのは自分のせい。揺らいでしまうのも自分のせい。
そんな自分を責めてしまう。
だから、いくつもの事柄に対して臨機応変に動かなければならないことが多かったりすると混乱して疲れてしまう。それで「なんてダメなやつなんだ」と自分を否定し、自分の価値が低くなる悪循環がぐるぐると続く。
そんな自分から目を逸らそうと、あえて忙しく過ごす。若さだけでなんでも乗りきれてしまう二十代は過ぎ去っていて、勢いだけでやみくもに突っ走るのはエネルギーの浪費になるのはわかりきっている。それなのに忙しく過ごそうとしてしまう。
どうすればいいのかわからない。
持って生まれた個性が違うので役割も違ってくる。大人になるにつれて、憧れの職業につきたいと思い、それに向かって努力すれば幸せになれるという単純な考えだけでは幸せになれないと氣づいた。
ずっと外に目を向けてきた私は、無意識の自分の奥底に何があるのかさえも知らずにいた。でも、外に目を向けることが最善だと自分で決めて行動した結果なので仕方ない。
経験の少ない子どもの頭で捉えられる世界は狭い。
社会のシステムを知らず、深く考えなかった浅はかさゆえの強行突破だった。
その結果、私は極端に心を閉ざし、あらゆるもの、あらゆることから距離をおくということしか考えられなくなった。友達はいない、会社の忘年会などの行事に参加しない、よほど氣がのらないと人づきあいはしない。
そのときは、他の人と同じように日々を生き抜くことだけに集中して、自分のスペースでホッとしたいというのが本音だったのだろう。何も感じたくない。良いことも感じられなくていいので、不快なことだけは絶対に感じたくないと思ってしまった。
誰にも氣を使わなくていい時間や空間が必要だった。
音がなくて寂しいからと、部屋で過ごすときは大音量で音楽をかける人もいるらしいが、私は音がなくていい。かけるとしてもヒーリングミュージックだ。カフェなどでかかっている音楽も、音量が大きすぎると煩わしく感じるくらい私は静かな空間が好きだ。
人間関係も同じで、静かなほうがいい。HSPの私は会話するだけでも疲れてしまうので、職場の人と積極的に話したいなんて思わない。コ○ナ渦じゃなくても、職場の人間関係に深入りしたくないし、あまり自分のプライベートも話したくない。
それくらい静かなほうが好きだ。
そんな自己肯定感が低い私の過去を書きおこそうとしてみるも、途中で筆がとまり軽く書けそうな他のことに逃げてしまう。そしてベッドに身をなげだして、ボーッとするうちに寝落ちしている。
深い部分で向きあわないように抵抗しているのだろう。そうやって筆が進まないからといって、ちょこちょこ動かなければならない家事をやる氣にはなれず、片づいていない部屋を横目で見ながら生きている。
私が育った昭和五十〜六十年代は物質主義の時代で、インターネットもなかった。私はテレビに映し出される情報に影響される田舎の子どもだった。高度成長期の真っ只中で景気が良く、子どももたくさん生まれていて、人よりも早く良くなれ、より良くなれ、もっと良くなれと要求されるような世の中だった。これは私の家庭も例外ではなかった。
テレビの向こう側には、今では考えられないほどたくさんの生花が飾られた豪華なセットや、海外からのアーティスト、国内外問わずの生中継もあった。紅白歌合戦も今より楽しみにしていた人が多い時代だった。
「自分を深く知る」ことをさまざまな角度から探求し、自分を癒やしていく過程で、生きづらさの原因がHSPという特性であることにたどりつきました。
このブログはHSPという特性に向き合いながら、結婚と天職を手に入れるまでの心の深海潜水夫記録です。
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カテゴリーは、
自分を受け入れる
(生きづらさってどこからくるの?)
自分を癒やす
(癒やしの体験記・創作活動など)
自分を知る
(西洋占星術・パーソナルカラー診断など)
自分を愛する(自分なりにやってみた)
HSPの心のなか(日常感じたこと)
小説
その他
になっております。
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大人になってHSPを知り、ふに落ちた過去の思いを忘れずに書きとめておきたいと思い始めました。小説も書いています。
現在、工場で働くHSPアラフォーです。
あくまで、個人的考察です。