小説「ゴールドラッシュ」続き8

小説「ゴールドラッシュ」 小説

第二幕 〜陸にあがった女〜

一週間後の金曜日。
「このあと、飲みに行かない? どう?」
お店がようやく終わり、着替えていた希子が言った。
「行きたい行きたい。明日お店は休みだし、いいんじゃない?」
梢は笑って答えた。
第三土曜日は事務所のレッスンも休みだ。
身支度を整えて外に出る。
冷房が効いた店内とは裏腹に夏の夜は蒸し暑く、ちょっと歩くとすぐに汗がにじんできた。
ふたりはいつものピアノバーに入る。お店が終わったあと、ピアノバーに梢は希子といっしょに飲みに出かけることがあった。ドアを開けて梢の耳に届いたのは、内田雫という青年のピアノ演奏だった。彼のピアノ演奏は梢の乾いた心を潤してくれた。年上の風格がある彼のことが、梢は氣になっていた。

ふたりは『イスラ・デ・ピノス』というカクテルを注文した。スペイン語で『パイナップルの生い茂る島』という意味で、甘味の強いカクテルのなかでもグレープフルーツの苦味にも似た酸味がさっぱりしているこのカクテルが大好きだった。
「花言葉のように、カクテルひとつひとつにもメッセージのような言葉があるんですよ」
カウンター越しにふたりが注文した『イスラ・デ・ピノス』を出す際にマスターが話題を添える。
「えっ、そうなんですか? このカクテルはなんですか?」
「この”イスラ・デ・ピノス”の言葉は、”無防備”ですよ」
ふたりは顔を合わせながら笑ってしまった。『イスラ・デ・ピノス』を飲みながら、ふたりはしばらくピアノ演奏に耳を傾けた。

馬が合う希子との時間は楽しく、いつのまにか梢にとって親友と呼べる存在になっていた。
大震災で住む家を失い身内とも連絡が取れなくなってしまった希子は、仮設住宅を経て上京し、生きていくため夜の世界に入ったと梢は聞いていた。
「何もかもあの地震で一瞬になくなって、人ってなんのために生まれてくるんだろう?」
酔いがまわった希子がポツリと言った。
希子は両親、そして近所に住む祖父母とも音信不通だった。あの地震では生きてはいないだろうと希子は感じていた。梢にも遺体が見つからないので心の整理がつかないとよく言っていた。
希子はいつも優しかった故郷を思っていた。
「昔に戻りたい。自然がある空気がきれいなところで生活したい。人の一生ってなんなんだろうね」

梢は何も言えなかった。言葉を発すれば希子の繊細な部分を傷つけてしまうかもしれないと思い、希子の話を黙って聞いていた。なぜなら、もう戻る場所がないことを希子自身がよく知っていたからだ。
私たちは前に進むしかないのだ。
「魂という言葉を使うなら、魂レベルで自分たちが犠牲になることに同意してから生まれてくるのかなあ?」
希子がかばんからライターを取り出したばこに火をつけたので、梢もたばこを吸った。
ピアノの調べと『イスラ・デ・ピノス』で、希子の瞳はとろんとしてとても氣持ちよさそうだった。
もしかしたら、白い煙といっしょに一方的に思いを吐き出したかっただけなのかもしれない。さまざまな謎かけみたいな問いに対する答えは希子にとってはどうだってよかったのかもしれないと、梢は氣持ちよさそうな希子から内田に視線を移した。

なぜ、私はこんなに彼にひかれるんだろう?
梢は冷静に自分の氣持ちを分析していた。
そうだ、小学生のころピアノを習ってみたいと母に言ったけど、「お金がないから無理よ。どうせ続かないんだから」って却下されたんだっけ…。
もしあのときピアノを習っていたら、私の人生はどう変わっていたんだろう?
雫という珍しい名前と、自立した生き物のように自由に鍵盤の上を駆け巡る薄いガラス細工のように繊細な十本の指が、梢からは知らない美しい世界を知っているかのように見え、内田に無性にひかれてしまうのだった。

二十三歳 八月
昼間の熱氣から夏のだらりとした気だるさに変化した夜の空気が覆う店内。手元の氷が溶けたグラスの下には水滴でぬれた紙のコースターが膨らんでいた。
梢は二十三歳の誕生日を迎え、お店のナンバーワンとしての振る舞いも板についてきた。
ロッカーの嫌がらせ事件や風間社長との出会い、月島への引っ越し、そしてモデルのスカウトとたくさんのことがありすぎたが、梢にとってカラフルに彩られた密度の濃い時間だった。
まだまだ私も捨てたもんじゃない。
すっと背筋が伸びる感じがした。
昔新聞配達所で知り合ったバンドマンの優弦、名刺を渡された小太りのスカウトマン、バーでピアノを弾く内田、同伴した風間社長、そして所属事務所の社長やレッスンの先生。
梢はこの二年間を彩ってくれた男性たちを思い浮かべながら、ぱらりと額に落ちる髪を優雅な手つきでかきあげた。
私が一番輝くにはどうすればいいのだろう? 私がこの地球でやりたかったことはなんなのだろうか?
梢は考えるよりも感じたく、好き嫌いを頼りに自分が心地よくしっくりくるものだけを自分の周りにおいておきたかった。つかみどころのないそれらを、自分の手でつかみとりたかったのだ。見切り発車したくない梢は、まだブレーキとアクセルを同時に踏んだままだった。

二十三歳 五月
ぽかぽかと暖かい春がやってきた。その心地よさに梢の心は柔らかくなり、都会の騒がしささえも優しく聞こえた。
こいのぼりがバサバサと翻ってはグッタリするのを部屋の窓から眺めていた梢は、ふとあの名刺のことを思い出した。話だけでも聞いてみたいという衝動にかられた。
可能性は広いほうがいい、世に出るためならモデルでもいいんじゃないか?
梢の心に魔がさした。
昔に使っていた財布のなかを探してみると、名刺はドトールのレシートといっしょに入ったままだった。財布のなかにレシート類は入れないほうがいいと風水かなにかで聞いたことがある梢は、ズボラな自分を恥じた。
名刺に目をとおすと、スカウトマンの名前が『吉田和弘』ということを初めて知った。

大杉ナツナ

「自分を深く知る」ことをさまざまな角度から探求し、自分を癒やしていく過程で、生きづらさの原因がHSPという特性であることにたどりつきました。

このブログはHSPという特性に向き合いながら、結婚と天職を手に入れるまでの心の深海潜水夫記録です。

大人になってHSPを知り、ふに落ちた過去の思いを忘れずに書きとめておきたいと思い始めました。小説も書いています。

現在、工場で働くHSPアラフォーです。
あくまで、個人的考察です。

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